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お酒のお供

お酒を飲みながら読んだら確実に悪酔いします。

やさしさについて 1

やさしさについて

一週間以上が経った今も、夢に見るほどの罪悪感を拭いきれません。

 

新橋から銀座通りに入って有楽町へ。博品館に寄ったり、夕暮れの人混みの間を縫うように歩いたりしながら、とても落ち着いた一日の大団円を迎えようとしていました。

駅前のビルで夕食を食べることに決め、通された二人席は半個室。この時間になって一日の疲れが出てきたのか、それとも単に空腹ではなかっただけなのか、互いに口数はさほど多くありません。気づくと徐々に会社帰りのグループが増えてきて、店内は騒がしい雰囲気になりつつありましたが、あくまで私たちの空間は穏やかに時が流れているように思えました。私は静かな心地よさの中にいたのです。

それでも、言葉を交わすことの楽しさももちろん知っています。元来、ひとと話すことは好きですから、話が弾むと心も弾みます。そこで何か会話の種はないものかと考えてみると、あることをふと思い出しました。そして、口に出してしまったのです。

言葉にする前に一瞬の躊躇があったにもかかわらず、それを振り切ってしまった自分の軽率さを後悔しました。

 

彼女は私の発言に平静を保ってにこやかに答えてくれました。しかし、そのあと視界の端で瞳を押さえる姿を、私は見逃すことはできませんでした。謝る私に微笑んで応じてくれる彼女のやさしさが、今もなお心に刺さって抜けません。

身の回りの人々は、しばしば「Penくんはやさしい」と私を評してくれます。意識しない行動に対して、そのように言ってもらえることは嬉しいことです。それでも、もしも「真のやさしさ」というものがあるのなら、私には明らかに欠落していたのではないか――。この日のこのやりとりを通して、そう感じざるをえません。

確かにお酒は飲んでいました。しかし、それを言い訳にはしたくありません。単に私の配慮が足りなかったのです。このシーンを夢で見るたびに、強烈な罪悪感と自己嫌悪に襲われます。

 

もしも機会があるのなら、ちゃんと謝りたい。でも、そのせいで再び辛さを脳裏によぎらせてしまうのなら、平然と振る舞いたい。

 

やさしさとは、何なのでしょうか。

話が進まない模範的な文章

男の模範

これから書く文章では、全く話が進みませんので、覚悟してくださいね。

話が進まない文章、すなわち同じことを繰り返すばかりで展開がない文章は、読んでいる側としても「もう分かってるよ!」ということを何度も読まされて飽きてしまうという問題もあり、絶対にしてはいけないと書き方です。

 

まずは、「話が進まない文章」というのがどのような文章なのかを考えてみましょう。これはすなわち、ある話題から抜け出せない書き方で書かれた文章です。言いたいことがあったときに、それだけを書きたいがために他のことを書かないで済ませようとしてしまうのです。そうすると、話が全く進みません。本来なら、「序論→本論→結論」といくような場合でも、「序論→序論→序論」や「本論→本論→本論」もしくは「結論→結論→結論」のように書くわけです。このような文章を読んでいると、読者としても飽きてしまいます。「はいはい、分かりました」と言いたくなるのです。

 

読者が読み飽きてしまう原因は、同じことが繰り返されるだけで新たな情報が提供されないからです。つまり、一つのことだけが延々と書き連ねられて、それに付随する内容が伴わないということです。そのような文章では話が広がりません。広がらない話題をずっと読まされていることほどの苦痛はありません。「そんなことは既に分かりました」と。

 

ところで、話が進まない文章がどのようにして作られるか、というメカニズムを知っていますか。それは、書き手が「こんなことを言いたい」ということだけを考えてしまって、それに固執してしまうことから始まるのです。つまり、一つの話題から展開させることができないということです。手を変え品を変え書くので、違うことを言っているように見えますが、実際には一つの主張の前後を入れ換えたり、因果関係で説明したりしているだけで、内容は全部同じになっています。そうなると、いずれ読むのを止めたくなります。なぜなら、得られる情報が一つしかないことに遅かれ早かれ気づくからです。得られる情報が一つしかないと、「それはもう分かっていますよ」という気持ちになるでしょう。

 

そうはいっても、他に言いたいことがなければ繰り返してしまうのも理解しがたいことではありません。言いたいこと一つだけを言おうとすれば必然的にリピートせざるを得ないのです。ひとたびリピートすれば、話が次へと進むことはまずありません。話が進まない文章、それは読みたくなくなる文章なのです。そんな文章に接したとき、人はこう呟くでしょう。「そのことは分かったから次の話に移ってくれ!」

 

従って、このような文章を書いてはいけないのです。読みたくない文章は書く価値がありません。このことは、もう皆さんにはご理解頂けたことでしょう。

話が進まない文章、すなわち同じことを繰り返すばかりで展開がない文章は、読んでいる側としても「もう分かってるよ!」ということを何度も読まされて飽きてしまうという問題もあり、絶対にしてはいけないと書き方なのです。

明日に架かる橋

Pen独白

再びこの日が巡ってきました。7年目の3月11日です。被災地の皆様に向けて心から御見舞いを申し上げるとともに、1分間の黙祷を捧げます。

 

2011年の今日、私は仙台の高校にいました。その日は模試か何か、そのようなテストを受けて、午後の早い時間から部活が始まる予定でした。

そして14時46分を迎えます。柔道部に所属していた私は道衣に着替えようとしていたところでしたが、揺れに気づいて急いで外に出ました。校門の外に見える街灯は左右にたわみ、信号機の電気は消えるその異変に、誇張ではなく「夢じゃないのか」と疑いました。実はその2日前(3月9日)にも大きめの地震があったのですが、その時とは明らかに違う「何か」を感じていました。

その後、帰宅できる生徒から帰宅するように指示を受けましたので、私もそのタイミングで学校を後にしました。公道に出てみると、その被害の大きさを感じさせられます。無数の地割れ、落下した歩行者用信号機。倒れた街路樹や飛び出したマンホール。見たこともない光景です。そして、しばらくしてから津波が襲ってくるわけですが、それ以降のことは周知の通りです。あえてここで一つひとつなぞる必要はないでしょう。何はともあれ、被災地域の様子は、海沿いも山沿いも含めて一変してしまったことに違いありません。

 

今年も、3月に入った頃からテレビでは「震災から6年」などといって特別番組が組まれていました。それらを好んで見る被災者はおそらく少ないでしょう。それでよいのだと思います。被災者でない人が、それらの番組を見て防災への意識を高め、被災地へ思いを致す機会になるのなら特別番組の役割は果たされていると言えるのかもしれません。

ただし、それが「毎年恒例のイベント」のようなものになってしまったら意味がありません。「3.11を風化させない」などと口先だけで言うことなど誰にでもできます。畳句になってしまいますが、今を生きる人は、まさにこの「今」を生きているのです。過去の被害を忘れないことよりも、今の生活をどう改善するかということに焦点を当てなければなりません。

 

今でも、被災地に赴いてボランティア活動をしている人たちがいます。私はその方々を尊敬しています。たとえその活動が短期間のものであれ、または断続的なものであれ、それこそが「今を生きる被災者たち」への助けだと思います。

私個人の意見ではありますが、現在の被災地に必要なのはもはやモノだけではありません。「ひと」が求められています。それは児童にとっての教育者かもしれませんし、高齢者にとっての介護士かもしれませんし、はたまた子供たちにとってのピエロかもしれません。

実は、このピエロというのが非常に重要なのではないかと思っています。あまり知られていない組織ですが、「国境なき道化師団」という国際団体があります。スペインで生まれたこの団体は、日本に支部を持っていませんので、知名度が高くないのも無理はないことでしょう。彼らは、紛争などで危機にさらされ、そして元の生活を失ってしまった子供たちを笑わせる、ということを目的としています。すなわち、無意識のうちに笑顔を忘れてしまうような環境で、笑顔を思い出させるという活動をしているわけです。紛争と災害は全く異なるものではありますが、いわば「笑顔の復興」とも言うべきこのような試みが被災地でも活発化すれば、地域は新たなステージに進む原動力を得るような気がします。

ピエロやコメディアンが来たところで、笑えるのはほんの短時間かもしれません。また、教育ボランティアに勉強を教えてもらったところで、充実した学習時間は確保できないかもしれません。それでも、その一瞬こそが、被災者を後押しする大きな力になるはずです。

 

実際に、昨年の熊本地震のあと、東日本大震災の被災者がボランティアとして熊本に入っています。どこの土地に住んでいても、自然災害を避けることはできません。だからこそ、過去の被害を風化させないように錨を下ろすことではなく、今乗っている船のオールを共に漕ぐこと、そして明日に架かる橋を渡す手伝いをすることが大切だと思うのです。

僕から私へ、私から君へ

Penの日常

去年の中頃から、これまでの学校生活の思い出の品を断続的に整理しています。社会人になるにあたって、一つの区切りをつけるためです。

先日、小学校時代に私が学校で作った数々の作品(?)の中から、とある手紙が出てきました。封筒に書かれている宛名は「20才の僕」。どうやら、小学4年生のときの『2分の1成人式』の一環で書いた、未来の自分への手紙のようです。既に20歳を2年も通り越してしまいましたが、10歳の頃の「僕」に返信しようと思います。

まずは「僕」からの手紙の全文です。

20才の僕へ

10才の僕を覚えていますか? 僕は0才の時の僕を全く覚えていません。同じ10年がたって、20才の僕は10才の僕のことを覚えていないかもしれません。

僕は楽しく学校に通っています。転校生の○○くんと仲良くなりました。もちろん××くんと□□くんも、いっしょに遊んでいます。3人が20才になったときのことを想像できません。みんなは今、どうしていますか?

他にも質問があります。中学校、高校はどうでしたか? 楽しかったですか? 大学って、どんなところですか? 僕は今、宇宙飛行士になりたいと思っていますが、20才の僕も同じですか? 結こん(※結婚)は、しようと思っていますか? 毎日、楽しいですか? 実は今、イラクで戦争が起こっています。10年後は平和ですか?

20才は大人ですね。早く大人になりたいです。お元気で。

10才の僕より

 

10歳の君へ

まずは、お返事が2年も遅れてしまったことを謝ります。だからといって、今となってはその遅れを取り戻すことはできませんから、20歳の私に代わって22歳の私が答えることにしますね。

10歳の頃の君のことを、私はよく覚えています。でも、ここでアレコレと列挙するのは止めておきます。10歳の君が今一番新鮮に体感していることを、私が懐かしむように話すのはおかしいことですからね。君はこれからも一生懸命に生活すればよいのです。

それよりも、君がまだ知らないことを少し教えてあげましょう。君自身も知りたがっていることですしね。小学校中学年の君にはまだ少し早い話もあるかもしれませんが、心のどこかに置いてくれれば幸いです。

学校は、毎日とても楽しいところですよ。とても楽しいからこそ、知らない方が良いのだと思います。ですから、詳しく話さないでおきましょう。予測のつかない毎日を、全力で楽しむのが学校生活であり、青春です。今の君が、小学生としての生活を送っているのと同じように、これからもずっと前だけを見ていけば、毎日が輝いて見えてくるはずです。躊躇はしてはいけません。君は、今後の学校生活で、いくつもの挑戦を続けていくことになります。決してためらわないこと。自分の信じた道を進んで損をすることはありません。そうやって君のこれからの人生を歩いてきた私が保証します。

今の君の将来の夢は宇宙飛行士。確かにそうだったと思い出しました。君はそこから始まる様々な夢を次々に追い求めていきます。その中には大きな夢も小さな目標もたくさんあります。もうすぐ社会人になる今になって実感していますが、夢を持つことはとても大事なことでした。将来の君がずっと未来への希望を捨てなかったからこそ、今の私はここにいます。どこかの時点で「まあいいか」と何かを諦めてしまったとしたら、私は私ではない存在だったことでしょう。

今の私にも、もちろん夢があります。他の人から見たら、それはとても小さな小さな夢かもしれません。でも、必ず実現させるつもりでいます。きっと今の君に言ったとしても、納得してくれるはずです。君と私を繋ぐ12年の時を超えても心の中に確かに留まり続け、そして今後の何十年間も消えることはないであろう一つの信念から生まれた夢です。だから安心して、これからも希望を持ち続けてください。

ところで、「結こん」と書くとき、照れくさくありませんでしたか。中学校に通っている頃まで、結婚という言葉がどことなく大人の言葉のように思えてしまって、口に出したりするのが気恥ずかしかったように覚えています。でも、この歳になって分かってきました。結婚ということに何も恥ずかしいことなんてありません。とても自然で、ひととして大切な出来事なのではないかと思います。私は結婚をしたいと考えていますよ。

誰かを好きになることは当然のことです。それと同時に、辛いことでもあります。自分の思いが先走ってしまって、不必要に妬いてしまったり、誰かを喜ばせようとする気持ちが自分の胸を苦しめたりしてしまいます。10歳の君にはまだ分からないでしょう。それでも、ふと気付く時がいつか必ず来ます。自分の「会いたい」「話したい」を押し付けるのではなく、相手を喜ばせたい、幸せにしたいと思う気持ちが心を包み込むのです。その思いが二人重なったら、素敵なことだと思いませんか。結婚に対する考え方は人それぞれですが、私はそれこそが結婚だと思うのです。

それから、今の世界が気になるのですよね。残念ながら、やはり平和とは言えません。イラク戦争は私が高校に入るまで続きました。今でも武力衝突はあちこちで起きていますし、あらゆる争いは絶えません。人間の心が貧しすぎるのです。自分(の国)さえ良ければそれでいい、という考え方に急速に傾きつつあります。それは国際的な話だけではありません。身の周りを見渡しても、自分本位の人が増えてきているように感じます。いかに自分が他人よりも優れているかということを生き甲斐にしている人が、憚りなくそれを主張する世の中です。これは、お金を持っていない人、いわば物質的に貧しい人が、自分の身一つで生きていくのとは話が違います。心が貧しくなると、ひとはただ自分勝手に生きていこうとしてしまうのです。それは私自身もそうかもしれませんし、誰もが当てはまりうることだと思います。人間が豊かで余裕のある心を持つことができるのは、これからどれほど先になるのでしょうね。本当の意味での平和は当分訪れないのではないかという気がします。でも、信念は捨ててはいけません。どんな世界でも私たちは生きていかなくてはならないのです。

そういえば、友だち3人の話をしていませんでしたね。みんなきっと元気ですよ。今は遠く離れたところに住んでいるので、姿を見かけることはありませんが、今でも変わらず明るい3人がどこかで暮らしていると思います。

そして、彼らに加えて、今後君が出会うたくさんの人がいます。時に衝突し、時に信頼しあって、その度に関係は密接になっていきます。ずっと一緒にいたいと思うときもあるでしょう。それでもいつかは離れ離れになるときがあります。しかし、それを「別れ」と考えてはいけないと思います。一つの歯車が違っていれば一生出会わなかったかもしれない彼らです。それなのに、場所が離れただけで「別れる」なんて味気ないと思いませんか。これが今の私の持論です。住む場所は違っても、直接会える機会が期待できなくなっても、関係がぷっつりと切れるものではないはずです。だから、今仲良しの3人はもちろん、これから会う人それぞれを大切にしてください。別れを恐れたり惜しんだりするのではなくて、今の関係を大切にするのです。22歳の私が、10歳の君に言える精一杯のことです。

今の私も、大人になりたいと思っています。

長文失礼しました。

22歳の私より

 

書き終えた今、10歳の私から返事をもらったような気がしました。

眠れない夜と消えない記憶

Pen独白

昨晩は床に就いても全く眠れず、ただ頭の中を色々なことが脈絡もなく巡っていくという苦痛を味わいました。一人でどうにかしようにもどうにもなりません。たまりかねてTwitterで助けを求めたところ、何人かの方が相手をしてくれました。すごく気持ちが落ち着きました。ここで感謝申し上げます。ありがとうございました。

そうはいっても、眠れない間をずっと付き合ってもらうわけにはいきません。しばらく経ってTwitter世界から離脱した私は、返信ツイートで得たアドバイスを実行することに。明日は特に予定はないから、今夜は夜更かしをしてみよう。

まずは音楽を聴き始めました。あまりアップテンポな曲を聴いては余計に眠れなくなりそうなので、少し穏やかな選曲です。それと平行して始めたのが「頭に浮かんでくることを書き出す」というもの。布団のなかで思い浮かんでいたことを思い出したり、その場でふと生まれた考えを書き留めたりしながら無地のノートに箇条書きにしてみると、本当に脈絡のない考えが連なってしまって、我ながら驚きました。そのメモの中に含まれていた「明日は○○(友人)の誕生日」というものが、少し心に引っ掛かるところがあったので、ここで更に考えを膨らましてみることにします。

 

このような言い方が適切かどうかは分かりませんが、私はひとの誕生日を覚えるのがとても得意です。一度聞けば、ほとんど忘れることはありません。今でも小学生のときの友人の誕生日を覚えています。

一方で、相手が私の誕生日を覚えているかといえば、そうでないことが非常に多くあります。たくさんの人に祝ってほしいということでは決してありませんが、自分が覚えていることを相手が忘れてしまうということには、やはり一抹の寂しさを感じます。もちろん、これは単なる記憶の持続の違いということだけであるとは理解しています。それでも、些細なことを忘れられない自分が相手から取り残されてしまったような感覚に襲われてしまうのです。

 

誕生日は一つの例ですが、私の記憶力が他人よりも少しだけ長けていることは自覚しています。このことは、殊に勉強の場面では有利に働く面は確かにありました。たとえばセンター試験では日本史B・世界史Bを選択しましたが、暗記にさほど苦労した覚えはありません(揚げ足を取られないように言っておくと、当然ながら全部を覚えられたわけではありません)。大学に入ってからも、講義の内容を半期の間くらいであれば覚えておくことができましたので、テスト前に焦らずに済みました。勉強嫌いの私にはありがたい能力だったかもしれません。

しかし、これを誇っているように思われては心外です。普段の生活の中では、歴史の事項をいくら覚えていようと法学の知識をどれほど蓄えていようと、何ら大きな意味を持ちません。日々暮らしていく上で大切なのは、ひととの繋がりをどのように作り、それを保ち、より深化させ、そして別れのときにそれを別れとせずにいかに別れるか、ということだと思うのです。そのような人間生活の根本の部分においては、記憶は時にひとを苦しめます。

 

――想像してみてください。

数年ぶりに見かけた友人と街ですれ違って、あまりの懐かしさに声を掛けてみたら、確かに彼は彼本人なのに、自分のことを全く覚えていない。

友人から直接聞いた話を信じ込んでいたら、しばらく経ったある日、それが全くの嘘だったことを別の人から聞いた話から悟らされる。

当初はメンバー全員で共有していた旅行の思い出が、時間が経過していくにつれて私だけのものになっていく。

何ヵ月か前に「私はレアチーズケーキが好きなの」と聞いたので、喜ばせようと思い誕生日にレアチーズケーキを渡したら「なんでレアチーズケーキが好きなことを知っているのか」と本心から不審に思われる。

どれも私自身がこれまでに経験してきたことです。映画なら悲劇のヒーローにでもなれるのかもしれませんが、私のような単なる一般人には、やはりただ寂しさだけが募ります。

 

確かに、忘れゆくことは物悲しさを伴うものです。楽しかった出来事や嬉しかった言葉、大事な思い出が自分の心から薄れていきます。心の拠り所を失ってしまって、途方にくれることもあるかもしれません。

しかし、忘れたくても忘れられないということは、忘れてしまうことよりもしばしば辛いことなのです。もちろん、悲しい記憶が胸に残り続けることは言うまでもありません。それとは逆に、自分が大切にしようと温めてきた気持ちを、ある時突然相手と共有できなくなったことを知ったときの虚無感は、忘れてしまったことの悲しさを凌駕します。片想いしている相手に、「昨年二人で行ったイルミネーションきれいだったね」と話しかけたときに「え、そうだったっけ」と軽く返されてしまうようなものです。それでもその記憶を心に留め続けようと思うでしょうか。片想いを改めて意識させられるような気がして、今すぐにでも忘れてしまいたくなるはずです。誰を責めることもできません。

 

冒頭でも書いたように、今日は友人の誕生日でした。しかし、私はお祝いのメッセージは送りません。私が遠くに住む彼を懐かしむ気持ちを、彼も同様に持っているとは限らないと知っているからです。

「そのこと」をいつか忘れることができるまで。それは他人の誕生日の記憶に限りません。一つ忘れたと思ったら新たな一つが頭にインプットされてしまう慌ただしい生活の中で、私の忍耐はずっと続くことでしょう。

 

消えない記憶の辛さを、いま改めて噛み締めています。

女子力とは何か

Penの日常

なんだかキャピキャピしたカップルです。先日、電車に乗っていたところ、こんなことがありました。

 

女「あーっ、ケンジ(仮名)くん女子力たかーい」

ケンジ「サトミ(仮名)ちゃんだって女子力たかいじゃーん」

Pen (何なんだこの気持ち悪い会話は…)

サトミ「だって、ケンジくん今日ハンカチ持ってる~」

ケ「たまたまだよ」

サ「たまたまでも十分女子力高いよぅ」

 

フムフム。で、女子力って何なのだ。

じょしりょく ぢよし- 【女子力】

女性が美しくなりたいと願い、行動する力。美容・ダイエット・ファッションにとどまらず、キャリアや恋愛など多岐にわたる。(『女子力』松村明三省堂編修所編「スーパー大辞林 3.0」〔Androidアプリ版 Ver. 1.5.0〕)

女子力(じょしりょく 英語: women's power)は、輝いた生き方をしている女子(一部の男子)が持つ力であり、自らの生き方や自らの綺麗さやセンスの良さを目立たせて自身の存在を示す力、男性または女性からチヤホヤされる力。(Wikipedia『女子力』〔2016年10月26日11時16分編集版〕)

じょし‐りょく〔ヂヨシ‐〕【女子力】 
女性が自らの生き方を向上させる力。また、女性が自分の存在を示す力。
[補説]平成21年(2009)ごろからの流行語。明確な定義はなく、女性らしい態度や容姿を重んじること、女性ならではの感覚・能力を生活や職業に生かすことなど、さまざまな解釈で用いられる。(『女子力』「goo辞書国語辞典」:出典=デジタル大辞泉〔2017年2月11日閲覧〕)

女子力
読み方:じょしりょく

名詞「女子」に、接尾辞「力」がついたもの。(『女子力』「日本語活用形辞書 by Weblio」〔2017年2月11日閲覧〕)

「女子」に「力」がついたもの、ってそのままじゃん!なーんて言ってはいけません。

さて、色々な情報を引用してみましたが、どれも似ているようで少しずつ違うようですね。ここで大きな分類をするならば、大辞林大辞泉は「女子力を持つのは女性である」としている一方で、Wikipediaは「一部の男子」も女子力を備えると解釈している点でしょう。

 

ここから何がわかるか。「女子力」という単語それ自体の本来の意味は、当然のことながら女性が持つ特有の「力」なのでしょう。二つの大きな辞書が言っているのですから信じてあげましょう。

一方で、Wikipediaでは一般人が編集することによって巷の語法に忠実になります。そこで「一部の男子」も持ちうるとしているので、実生活のなかでは女子力を備えているのは女性に限らないということになります。もっと深読みをすると、「一部の男子」以外の男子は女子力を持ち合わせていないと言えるでしょう。

そうなると、ですよ。ケンジくんは女子力がある「一部の男子」の中の一人ということですね。その中でも「女子力がある」にとどまらず、「女子力が高い」のランクに位置しています。すごいですよ、ケンジくん。

もはや女子よりも女子と言っても過言ではありません。女子を超えた女子、すなわち超女子です。

 

超女子は、女子力の最先端をいきます。冒頭の大辞林の記述によると、女子力とは「女性が美しくなりたいと願い、行動する力」ですから、ケンジくんも常に美しくなるための行動をしているはずです。おそらく毎晩顔パックを欠かさず、全身ローラーは月に一度買い換え、「お野菜たくさん食べなきゃっ」などと言いながら旨くもないアボカドをタコのごとく飲み込み、「お魚大好きぃ」と言いながらウロコも取らずに生魚を食べていることでしょう。

「輝いた生き方をしている女子(一部の男子)が持つ力」と書いているWikipediaも見逃せません。ケンジくんは確かに輝いていました。首筋に光るネックレス。ゴージャスな指輪が三つ四つ。クゥーーーッ、手首のタトゥーが眩しいぜ☆ …えっ、そういう意味じゃないって? でもまあ、そういう意味ってことにしておきましょう。さらにWikipedia、こうも書いています。「自らの生き方や自らの綺麗さやセンスの良さを目立たせて自身の存在を示す力」。そりゃあね、ピカピカのアクセサリーは自分のセンスの良さをアピールしているでしょうね。センスのない私には、安っぽいジャラジャラしたものが邪魔そうに見えましたけどね。邪魔じゃないんでしょうね。ジャマじゃないのか。ジャマイカ。じゃぁ、まぁいいか。

 

でも、女子力のある男はチヤホヤされるって言うんですから(Wikipediaより)、私だって少しぐらい女子力を付けてチヤホヤされたいですよ。

ケンジくんの例に倣えば、ハンカチを持っていると女子力が高いんだとか。あれ、私は出かけるときには必ずハンドタオルを持ち歩いていますよ? なんならポケットティッシュも持っています。

あっ、でも「お野菜たくさん食べなきゃっ」なんて言わずに黙々とキャベツを口に入れるタイプなので、この点ではケンジくんには勝てません。超女子のケンジくんには及ばないということなので、私はまだ女子を超える存在ではないようです。……って、それって女子そのものじゃんかっ!

 

おわり。

赤面しつつ…

フィクション

今日はバレンタインデー。皆さんはいかがお過ごしですか。胸キュンの一日を送られることを祈っております。

 

さて、話は変わりまして。高校一年生のときに、たまたま同じ曜日に部活がOFFだった男女4人組で、毎週の放課後に他愛ないことを話していました。そんなある日、メンバーの一人だった女の子からの提案により、「4人の中で一番胸キュンする物語を書いた人が勝ち」というゲームが行われたのです。制限時間は30分。4人でニヤニヤしながら書いたのを覚えています。

そんなことなどすっかり忘れていた先日、高校時代のものを整理していたところ、その原稿を見つけました。ノートの最後から2ページ目に手書きで書かれた物語です。題名は『冬の春風』。懐かしさに襲われまして、赤面しつつ全文を掲載します。人肌恋しい気持ちで書いたようで、読んでいるこちらが恥ずかしくなるほどのピュアなラブストーリーです…。

 

『冬の春風』

真っ白な空から降りてきた雪の結晶が、街路樹の枝に当たって静かに融けていった。人が通った跡をわずかに残して厚く積もった白い歩道を歩きながら、マフラーを顎まで引き上げた。二月の風が音も立てずにビルの間を吹き抜けていく。

真っ直ぐに続くその広い通りは、まるで永遠に続いて空に繋がるのではないかと思えるほどに景色に溶け込んでいる。その神秘的な世界に見とれて通りすぎてしまった交差点まで引き返して、僕は小さな洋菓子店に入った。慣れない甘い香りに包まれつつ、シナモンクッキーを指差す。微笑みながら包装してくれる店員の手元を見るともなしに見ていると、こちらまで穏やかな気持ちになれた。白く細い指がきれいだった。

店を出てからの道はあまり覚えていない。今となって思い出せるのは、公園のベンチに身を縮こめながら座る君の姿を見つけた瞬間から後のことだけだ。

君は今も覚えているだろうか。

「来てくれてありがとう」と言いながら僕に差し出した紙袋は、どこかで見覚えのあるデザインだった。君は照れ隠しをするように、「うすうす気づいてたとは思うけど…好きです」と呟いた。

その返事の代わりに僕が君の小さな手に引っ掛けたのは、君が僕にくれたのと同じ紙袋だった。

「返したんじゃないよ。この公園に来る前に、大通りの店で買ってきたんだ。シナモンクッキー、好きだって言ってたよね?」

戸惑う君をいとおしく思いながら、僕は続けた。

「バレンタインデーに、自分が相手のことを『好きだ』っていう気持ちを伝えられるのが女の子だけなんてずるいと思ってる。海外と同じように、男からだっていいじゃないか。これは、僕から君へのバレンタインプレゼントなんだ」

頬を赤らめた君は、それまでに見たことのない表情をしていた。そして君は突然僕を上目遣いに見つめて、「私も…シナモンクッキーを買ってきちゃった」と笑ったのだった。

いつしか雪は止んで、暖かな空気が僕たちを包んでいた。

 

ひゃー。バレンタインデーだから載せてはみたものの、やはり他人に見せるようなものじゃないですね、これは。お恥ずかしい限りです。

ちなみに、ここで他の3人におだてられた私は、翌年に『いちご』という短編恋愛小説を密かに書き、それから数年温めて、昨年完成させたわけですが、これは取り敢えず今回はおいておきましょう。

 

それでは。

 

(今年のバレンタインデーも孤独だったか…何年目だ、この孤独…。)