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お酒のお供

お酒を飲みながら読んだら確実に悪酔いします。

フィクション1

フィクション Penチャレンジ

彼女はずいぶん酔っているようだった。終電が近くなり、閑散としたホームに冬の風が吹き抜ける。冷たく乾いたベンチから足を投げ出して座るその姿には、言いようのない寂しさが漂っていた。

僕は少し考えたあとで、無機質な低い音を立てている自販機で温かいミルクティーを買い――そこでまた少し考えてから――、彼女に差し出した。彼女は目も合わせずに、「カルーアミルクはもうたくさん飲んだから」と呟いた。

「これカルーアじゃないですよ」と答える僕を気にも留めずに続ける。「そういう優しさが嫌なの。分からない?」

すみません、と穏やかに返してから、僕は改札へ向かった。「じゃあさよなら。あぁ、このミルクティーはここに置いておきますね」

 

それから2、3日経った頃だろうか、電車を降りたホームで再び彼女に遭遇した。同じベンチに同じ体勢で座って俯いている。

「大丈夫ですか。こんなに寒い日に外にいたら風邪引きますよ?」

彼女は無言で手に持っていたペットボトルを僕に向かって突き出した。ミルクティーだった。「ありがとうございます」と笑うと、真面目な顔をして彼女は口を開いた。「この間みたいに無理やり渡されると、借りができて困るから。これでプラマイゼロでしょ」

「借り、なんて」そう言いながら彼女の隣に座った。彼女は少しだけ身体を僕から反らしたようだった。それでいい。ただ隣に座りたかっただけだ。

しばらく言葉はなかった。酔っている彼女が自分から話し出すとは思えなかったし、僕もこれといって話題はない。風に揺れる木の枝を見るともなく見ていた。ふと彼女の方へ視線を移すと、頭で思っていたよりも綺麗な服装をしていることに気づく。上着はベージュの長めのコートを着ていたが、埃の一つも付いておらず、ましてシワなど全く見当たらない。黒い靴はくまなく磨かれているようだった。

突然、駅にアナウンスが流れた。「お客様にご案内致します。間もなくまいります電車は本日最終電車となります」――言い終わるのを待たずにホームに電車が入ってくる。彼女はゆっくりと身体を起こして立ち上がった。

その背中に呼びかける。「いつもどこで飲んでるんですか? よかったら今度、一緒に飲みませんか。……そうだ、あさっては土曜日か。5時にこの駅の北口に来てくれたりしませんかね。来なかったら一人で飲みますけど」彼女の動きが一瞬止まったが、やはり答えなかった。

 

土曜日、北口に行ってみると既に彼女が立っていた。両手に大きなポリ袋を二つ持っている。着ている服は確かに清潔感はあるものの、よく見るとそれはスポーツウェアだった。今まで見ていた彼女の印象とはまるで異なる。遠目から見ると、ただゴミを捨てに来ただけの人のようにさえ見えてしまう。

「来てくれたんですね」と声を掛けると、ポリ袋を両方渡された。「とりあえず、これ持ってください」

ずっしりと重い。そして自分についてこいと言う。答える間もなく追いかけた。

5分ほど歩いて行き着いた先の小さな公園の四阿で、彼女はちょこんと座った。辺りには間もなく夜がやってくる。「持ってもらった袋の中に、お酒とおつまみが入ってる。足りないかもしれないけど、飲もう」「でも、今日は僕が誘って」「男の人に借りは作りたくないの。いいから」

思いきって年齢を聞いてみた。「そんな遠慮して聞かなくてもいいけど。いま24。…ふぅ。で、兄さんは?」「22です」

「まあ年下だろうとは思ってたんだよね。大学生?」「そうです」「別にいいよ、そんなに固くなんなくて。はたち過ぎたらみんなおんなじ。22の兄さんも、60のおじさんもみんなおんなじ」

しばらくそんな当たり障りのない話をしていたが、袋の中の缶チューハイが2本だけになったのを見計らったようにして、彼女は饒舌に話し始めた。

 

「兄さんね、私のことかわいそうだと思ってる? 兄さんは優しいもんね、『思ってません』とか言うんだろうね。なんとなく分かる。

でも実際、普通に高校出て、大学も普通に行って。名前も知らない普通の会社に入って。今もこうやって普通に過ごしてる。平日になれば普通に出勤するし、休日も普通にだらだらしながら飼ってるインコに餌あげたりして。何が楽しいの?って聞かれたら分かんないけど、楽しくなくはないよね。毎日。

でも、兄さんって普通じゃないと思う。なんか分からないけど、普通じゃない。ちょっと違う。きっと他の男の人も兄さんが普通だって言うんだと思うけど、私からしたら普通じゃない。知らない人に突然ミルクティーくれたり、終電まで一緒にいてくれたり、そんなの普通なわけないじゃん。男の人は、そういう普通じゃないことするのが楽しいんでしょ? やめてほしいんだよね。周りで楽しいことされると、普通に暮らしてる私がすごくかわいそうに見えるから。私の普通を乱さないでほしい。

本当は普通に結婚もして、普通に子供産んで、普通の家庭で暮らしたい。でも、普通の男の人っていないじゃん。だから無理かな。うん。……そうなんだよね。

……前に、お父さんに『"普通"って何だ』って怒られたことがある。もっと主体性を持てとかなんとかって。でも、私の中では普通のことと普通じゃないことってちゃんと分かってるつもりだし、自分の"普通"の中で暮らすのが主体性だと思ってる。お母さんは分かってくれてた。お父さんもお母さんも、もういないんだけどね。

ごめん。喋りすぎた」

 

「お姉さん、あっ、すみません。でもなんて呼べばいいか分からないから、お姉さん、で。

お姉さんも、普通じゃないですよ。どこかずれてます。真夜中の駅のホームで週に2回も酔っ払って座ってるOLなんて見たことないですもん。

普通に生きようと思うから、疲れるんじゃないですか?」

 

「私、お酒弱いんだよね。でも飲んじゃうの。会社では普通の女の子らしく振る舞ってて、先輩にかわいがってもらって。

でも、会社を出ると"何か"から解放されるの。その勢いで飲んで、やっとのことでホームに辿り着いて、終電で帰る。そういう感じかな。

疲れてないよ。全然」

 

しばらく沈黙して、僕たちは最後の1缶ずつを飲み干した。冷たい風に吹かれながら、三日月が沈んでいく。もうすっかり夜か。

「話したらすっきりした。また会えたら話そうね。あ、奢ってくれなくていいから。私がまたお酒買ってく」

 

そして、駅のホームで彼女に会うことはなくなった。あのお姉さんは不思議な人だった。

不思議だった。