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お酒のお供

お酒を飲みながら読んだら確実に悪酔いします。

こころの広がりとことばの限界

Penの日常

明日は楽しみなことがあって、まるで小学生の遠足前日のようになかなか眠れないかもしれないので、とりあえずそろそろ布団に入ろうかと画策しているなう。

今週の月曜日の夜に、私がTwitter上で呟いた文です。これは強ちウケ狙いなどというものではなくて、本心に近いところが大いにあります。翌日が楽しみであるあまり、眠れない・眠りが浅くなるといったことが多いのです。

そこで、このツイートを見た人や本記事を読んでくださっている人は、「ツイートの翌日=火曜日に何があったんだろう」と思うのではないでしょうか(そのくらいは私に関心を払ってくれたらいいなという願望もありつつ)。私としても、是非とも皆さんと共有したいところです。

 

しかし、結果的にそれは不可能でした。

 

この記事を書く前に、火曜日の出来事を実際に文字に書き起こしてみました。しかし、どうしても記事として完成させることができません。頭の中には「こんなことがあった」「あんなこともあった」と事柄が浮かんでくるのですが、文章にするとうまくまとまらないのです。

これがなぜなのか、よく考えてみました。もちろん、私の文章力の低さも原因の一端ではあると思います。しかし、それだけでは収まらない大きな理由があることに気づきました。

 

それは、火曜日の出来事があまりにも楽しくて、とても印象的だったからです。しかも、ある特定の場面ではなく、はじめからおわりまでを通して心地よかったからだと思います。

文字にすると、それがたとえどんな言葉で修飾されたとしても、そこに書かれたものが全てになってしまいます。その出来事に際して、何の発言に対してどのような思いを抱き、何の言葉を発し、それを相手はどのような表情で聞いていたのか。その中で生まれる、言葉にできないような繊細な感情や微妙なニュアンスは、文章として固定するのではなく心の中で温めることに意味があるような気がします。

それは写真にも似ているかもしれません。ふと見上げた空がきれいだったので、その写真を撮る。ご飯を食べに行って、そのおいしそうな食卓を撮る。もちろん、それは日常を切り取る術としてはとても有効な手段です。いつでも見返して、思い出すきっかけにもなります。

しかし、「思い出す」ということは、裏返せば「忘れていた」ということです。目にした空の青さを、来月には忘れてしまうかもしれないからこそ、撮った写真を見ることで思い出すわけです。同じように、今日の出来事を忘れてしまうかもしれないということが、例えばひとが日記を書くことの根源的な理由なのだと思います。

 

だからこそ、私は火曜日の出来事を文章にすることができません。言葉にした瞬間に、何かが壊れてしまうような気がするのです。

 

さて――。それから2日が経過した今でも、火曜日の一つひとつの場面が鮮明に浮かんできます。夜のたった4時間ほどのことだったのですが、これほどまでに心に残るとは思いませんでしたし、それがなぜなのかもよく分かりません。これが私だけではなく、同じ時間を過ごした中でほんのわずかでもこの感慨を共有してくれていればいいと思うのですが――、こんなことを期待するのは自分勝手かもしれませんね。

 

みなさんにも、心に留まり続ける記憶はありますか?