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お酒のお供

お酒を飲みながら読んだら確実に悪酔いします。

明日に架かる橋

Pen独白

再びこの日が巡ってきました。7年目の3月11日です。被災地の皆様に向けて心から御見舞いを申し上げるとともに、1分間の黙祷を捧げます。

 

2011年の今日、私は仙台の高校にいました。その日は模試か何か、そのようなテストを受けて、午後の早い時間から部活が始まる予定でした。

そして14時46分を迎えます。柔道部に所属していた私は道衣に着替えようとしていたところでしたが、揺れに気づいて急いで外に出ました。校門の外に見える街灯は左右にたわみ、信号機の電気は消えるその異変に、誇張ではなく「夢じゃないのか」と疑いました。実はその2日前(3月9日)にも大きめの地震があったのですが、その時とは明らかに違う「何か」を感じていました。

その後、帰宅できる生徒から帰宅するように指示を受けましたので、私もそのタイミングで学校を後にしました。公道に出てみると、その被害の大きさを感じさせられます。無数の地割れ、落下した歩行者用信号機。倒れた街路樹や飛び出したマンホール。見たこともない光景です。そして、しばらくしてから津波が襲ってくるわけですが、それ以降のことは周知の通りです。あえてここで一つひとつなぞる必要はないでしょう。何はともあれ、被災地域の様子は、海沿いも山沿いも含めて一変してしまったことに違いありません。

 

今年も、3月に入った頃からテレビでは「震災から6年」などといって特別番組が組まれていました。それらを好んで見る被災者はおそらく少ないでしょう。それでよいのだと思います。被災者でない人が、それらの番組を見て防災への意識を高め、被災地へ思いを致す機会になるのなら特別番組の役割は果たされていると言えるのかもしれません。

ただし、それが「毎年恒例のイベント」のようなものになってしまったら意味がありません。「3.11を風化させない」などと口先だけで言うことなど誰にでもできます。畳句になってしまいますが、今を生きる人は、まさにこの「今」を生きているのです。過去の被害を忘れないことよりも、今の生活をどう改善するかということに焦点を当てなければなりません。

 

今でも、被災地に赴いてボランティア活動をしている人たちがいます。私はその方々を尊敬しています。たとえその活動が短期間のものであれ、または断続的なものであれ、それこそが「今を生きる被災者たち」への助けだと思います。

私個人の意見ではありますが、現在の被災地に必要なのはもはやモノだけではありません。「ひと」が求められています。それは児童にとっての教育者かもしれませんし、高齢者にとっての介護士かもしれませんし、はたまた子供たちにとってのピエロかもしれません。

実は、このピエロというのが非常に重要なのではないかと思っています。あまり知られていない組織ですが、「国境なき道化師団」という国際団体があります。スペインで生まれたこの団体は、日本に支部を持っていませんので、知名度が高くないのも無理はないことでしょう。彼らは、紛争などで危機にさらされ、そして元の生活を失ってしまった子供たちを笑わせる、ということを目的としています。すなわち、無意識のうちに笑顔を忘れてしまうような環境で、笑顔を思い出させるという活動をしているわけです。紛争と災害は全く異なるものではありますが、いわば「笑顔の復興」とも言うべきこのような試みが被災地でも活発化すれば、地域は新たなステージに進む原動力を得るような気がします。

ピエロやコメディアンが来たところで、笑えるのはほんの短時間かもしれません。また、教育ボランティアに勉強を教えてもらったところで、充実した学習時間は確保できないかもしれません。それでも、その一瞬こそが、被災者を後押しする大きな力になるはずです。

 

実際に、昨年の熊本地震のあと、東日本大震災の被災者がボランティアとして熊本に入っています。どこの土地に住んでいても、自然災害を避けることはできません。だからこそ、過去の被害を風化させないように錨を下ろすことではなく、今乗っている船のオールを共に漕ぐこと、そして明日に架かる橋を渡す手伝いをすることが大切だと思うのです。